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lundi 7 mai 2012

写真と認知神経科学<4>

何者も同時に二カ所でシャッターを切ることはできない。また、何者も自分が居ないところでシャッターを切ることはできない。写真は、主体的存在そのものの記録であるがゆえに、われわれは一瞬の内的なインパクトを、写真表現に託し得る、と云うのは言い過ぎでしょうか。われわれは写真を撮ります。無限にある瞬間の中のある一点に、たとえば1/125秒か1/30秒の間だけ、ある画角を任意の光の量でフイルムか撮像素子に焼き付けます。確定された光は一瞬で固定され、量と時間を超えてその内的なインパクトを伝える力をもつ「なにか」に変化します。写真表現だけが持つこの認識から表現までの独自の様式を、僕は能動的な「思考の視覚化」と感じずには居られません。いささか感傷に流され過ぎとの感も禁じ得ませんが、敢えて記そうと思います。われわれは、ファインダーを通してこの世界の意味を読み取り、そしてフイルムにその思考をわれわれの立ち位置ごと視覚化・実体化しているのです。

写真機もまた、巨大な資本の利潤追求の成果に過ぎませんが、それはここでは問題でありません。最高級の写真機も、決して独りでにシャッターが切れることが無いからです。シャッターを切ろうとする一瞬から始まるこの一連の出来事は、その写真の出来の良し悪しに関わらず、個の視覚経験を世に晒し、そのインパクトを世に問うことを意味します。この点で、シャッターを切る瞬間は他に類を見ない奇跡的な一瞬と云って善いのではないかと思います。

さあ、知らぬ間に世界はデジタル一辺倒になりました。一度旅行に出ると数百枚から千枚単位で写真が貯まってしまう時代です。現像代を胸算用しながら36枚撮りか24枚撮りかなどとフイルムの選択に頭を悩ませたのも今は昔、迷い無く好きなだけシャッターを切れるようにになりました。デジタル化がもたらしたこの映像のインフレーションは、「奇跡的な一瞬」の価値を根こそぎ引き下げ、未整理の画像ファイルはかつて教科書で見た一次大戦後のドイツマルク紙幣の束のようです。節操無く、強い意志もなく、それでも一定の上手さで撮れてしまった写真を思推の記録として見返すとき私は、われわれはもう後戻りできない点をきっと越してしまったのだと感じざるを得ません。

しかしながら。如何なる分野であっても、単なる「古き善き」への回帰が建設的な選択肢であった試しはおそらくありません。もう後戻りできない点を越してしまったいま、我々には、「奇跡的な一瞬」の価値を保つ為の衿持がまさに問われているのだろうと思います。
(写真と認知神経科学 了)

DA-Limited 70mm F2.4, k-x 
パリ市庁舎前 2012年

1 commentaire:

Dzjiedzjee a dit…

It has been a while since I've been here on your blog.
Again I see really great work!
I love it!