ここまで、「思考の視覚化」という概念、そしてそれは巨大資本の利潤追求の過程にも既に見受けられること、さらにこういった客観性が内的な過程を解き明かす手懸かりにもなり得るということを少しだけお示ししました。さあそれでは。プロ・アスリートが自分のフォームの録画映像を見てトレーニングに励むよう、われわれは我々自身の(思考の)記録を、より善く考える為の手懸かりとして用うることができるでしょうか。
写真撮影は、われわれが見たものとその意味を第三者に伝える非常に古典的かつ簡便な手法です。通常われわれは、視覚経験を第三者と同期して共有する機会をあまり持ちませんが(医学部の病理学教室にあるポインタ付き「ディスカッション顕微鏡」は数少ない例外の一つではないでしょうか)、しかし、あなたの視覚経験とその内的なインパクトは、あなたが撮影行為に及ぶことで、容易に実在の時間と空間から分離することができます。「残す」、「伝える」。あるいはもっと端的に「切り取る」、「凍らせる」、「save」。僕はこの、写真撮影の「無限にある現象の組み合わせの中から、ただ一点を確定する」というはたらきに、他の表現手法には無い、写真表現独自のすばらしさを感じます。映画でもなく、絵画でもなく。われわれは一瞬で、われわれの主観をメッセージとして固定するのです。(続く)
DA-Limited 70mm F2.4, k-x
パリ13区 2012年
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